【校長室だより】 キュリー夫人の生き方に学ぶ
| 教育エッセイ
毎週月曜日に行われる児童朝礼では、毎回、校長先生から全校児童にお話があります。今週の校長先生のお話を紹介します。
7月4日 月曜日 キュリー夫人の生き方に学ぶ
7月4日は、今から82年前、1934年にキュリー夫人が亡くなった日でもあります。66歳だったそうです。今日はキュリー夫人の生き方について一緒に考えてみたいと思います。
名前をマリ・キュリーと言い、1867年ポーランドの首都ワルシャワで生まれました。24歳でパリ大学に入学し、数学や物理学を学びました。ポーランド生まれのマリはフランス語があまりわからず、難しい授業に最初はついて行けなかったそうです。
その後、フランス人の物理学者ピエール・キュリーと出会い結婚しました。二人で協力して放射能の研究を始めました。粗末な研究室で何トンものウラン鉱石を分別蒸留する作業を根気よく続けたそうです。
そしてラジウムという新しい放射性元素の分離に成功し、1903年、キュリー夫妻にノーベル物理学賞が贈られました。しかし、その3年後、夫ピエールは馬車にひかれる事故で亡くなりました。その死にマリは悲しみながらも研究を続け、金属ラジウムの分離に成功し、1911年に今度はノーベル化学賞を受賞しました。
放射線研究に対するキュリー夫妻の功績は大きく、放射線の単位は二人にちなんでキュリーと呼ばれていました。今はウランの放射能を発見し、一緒にノーベル賞を受賞したアンリ・ベクレルの名前にちなんで、ベクレルという単位が使われています。シーベルトという単位もよく使われますが、どう違うのかは調べてみてください。
キュリー夫人の研究心と好奇心は、娘のイレーヌにも受け継がれ、後に原子物理学者になり、人工放射性元素の研究でノーベル化学賞を娘も夫婦で受賞しました。2回もノーベル賞を受賞したキュリー夫人は、探究心や好奇心を持ち、そして忍耐力を持って放射能という未知の世界に挑戦しました。
女性が科学を研究すること自体が珍しかった時代であり、色々な苦労があったそうです。それでもあきらめないで努力を続け、自分の研究に捧げた一生でした。キュリー夫人と娘イレーヌ夫妻とも白血病で亡くなりました。長い研究活動により放射能を浴び続けた結果だったそうです。
皆さんはキュリー夫人の生き方から何を学びますか。自分で色々と深く考えてみて下さい。
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